高倉健って日本の男性俳優の中でダントツ一位の存在ですよね!

映画界においては、彼には誰も歯が立たないんじゃないでしょうか?
確かに時代もあったと思いますが、
日本映画界では絶対的な巨人です。

そのすごさは、王貞治の868本のホームラン、
金田正一の400勝に匹敵するようなっものだったと思います。

圧倒的な日本の男優でした!

ということで今回は高倉健に迫ってみたいと思います。

 

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高倉健のプロフィール

高倉 健
たかくら けん

本名 小田 剛一
おだ たけいち

1931年2月16日生まれ
2014年11月10日(83歳没)

福岡県出身

180㎝
B型

ものすごいイケメンですね!
本当にハンサムです。

しかも、この当時の男性でこれだけハンサムで、
しかも身長が180㎝もあったら、それはスターになるって感じです。

もう、生まれた時から運命は決まっていたと言っても過言ではないと思います。

でも幼少のころは肺の病におかされたり、
かなり病弱な子供だったようです。
でも、そんな子供が日本一の映画俳優になるっていうのも不思議ですね。

しかし、中学校くらいになるにつれ、
英語とボクシングに興味を持ち始めて、
両方ともそれなりの腕前だったと言います。

大学は明治大学に進みました。

そして、東映東京撮影所の映画プロデューサーにスカウトされ、東映に入りました。
東映ニューフェイス第2期生でした。

主役デビューは、1956年の映画『電光空手打ち』でした。
しかしその後はなかなかヒット作に恵まれなかったようです。

そこで周りは高倉健の場合は、話すより立ち姿に魅力があると考えて、
アクションを中心に配役して、セリフをできるだけ少なくするように仕向けて行ったのです。

具体的には任侠映画で人気を博していったのです。

『日本侠客伝シリーズ』、『網走番外地』シリーズ、『昭和残侠伝シリーズ』
といったところでした。

しかし、60年代半ばになると、
高倉健は任侠映画ワンパターン量産体勢に疲れを感じていたようですが、
それでも観客から求められていることをモチベーションに演じ続けていたようです。

1973年には『仁義なき戦い』が大ヒットを記録したのでした。

 

その後は紆余曲折はあったものの、路線変更をしていきました。

1977年には『幸福の黄色いハンカチ』に主演し大成功をおさめ、
それまでのやくざ路線を完全に払拭したのでした。

そして2014年11月10日には、悪性リンパ腫のため都内の病院で逝去されたのです。
83歳でした。

 

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感想(0件)

主な作品

『電光空手打ち』/『流星空手打ち』
『暴力街』/『日本侠客伝シリーズ』
『飢餓海峡』/『網走番外地シリーズ』
『昭和残侠伝シリーズ』
『懲役三兄弟』/『山口組三代目』
『ゴルゴ13』/『三代目襲名』
『ザ・ヤクザ』/『新幹線大爆破』
『君よ憤怒の河を渉れ』/『八甲田山』
『幸福の黄色いハンカチ』/『冬の華』
『野性の証明』/『動乱』
『遙かなる山の呼び声』/『駅 STATION』
『南極物語』/『ブラック・レイン』
『あ・うん』/『四十七人の刺客』
『鉄道員(ぽっぽや)』/『あなたへ』

やっぱりカッコよかったですよ!

なんと見えない存在感があって、日本一の映画俳優でした。

 

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江利チエミとの離婚理由

高倉健は一度だけ結婚をしました。
その相手が歌手の江利チエミだったのです。

1956年の映画で共演したことがきっかけでした。
そして1959年に、
高倉健が28歳、江利チエミが22歳の時に二人は結婚したのです。

しかしその後二人はトラブルに見舞われたのです。

江利チエミの付き人をしていた異父姉が横領事件を起こしたり、
高倉と江利の夫婦関係をこじれさせるような話をでっち上げたり、
色々と二人を攻撃し始めたのです。

こういったことがきっかけとなり、夫婦関係はうまくいきませんでした。
そして1971年に二人は離婚に至ったのでした。

12年間の結婚生活でした。

しかしその後のインタビューで江利チエミは、
高倉健も多忙であったためにほとんど二人の時間が取れず、
薄っぺらい夫婦生活であったと雑誌の取材に答えています。

高倉健の養女は誰?

実は高倉健には、養女がいたのです。
名前は、小田貴(おだ たか)という女性です。

以前に女優やテレビリポーターをしていました。
その時は、貴倉良子という名前でした。

しかし、90年代の後半にテレビディレクターやホテルに関する記事を書くジャーナリストに転身したそうです。
そしてその時は、河野貴という本名で活動していました。

1964年1月13日生まれで、東京都出身です。

そして養女になったのが2014年5月だと言います。
それにしても、この時期に養女になるというのは、どう考えても不自然でした。
高倉健は、悪性リンパ腫と闘病していた最中に養子になったのですから。

そこで人々は色々と憶測をしました。
その大方の憶測は、小田貴は実質的には後妻だったのではないかということです。

二人の年齢差はなんと33歳でした。
だからこの年の差のある結婚をしてイメージを崩すより、
養女という形をとったほうが、
穏便に済ますことができるのではないかと考えたのではという憶測です。

特に高倉健は自分のプライベートを一切明かさないことで有名でしたから、
小田貴についての情報もほとんど出ていないのです。

 

葬儀を親族にも知らせない

高倉健の実の妹や、6人の甥も姪などの近親者がいます。
いまだにこの小田貴との面識すらないというのです。

そして小田貴ですが、高倉健が亡くなった時に親戚にも亡くなったことを知らせないで、
勝手に死後2日で遺体を火葬場に持っていき密葬していました。

こういった近親者が小田貴に会いたいと言っても、
色々とはぐらかして会うことを拒み続けているようです。

それなのに高倉健が死の直前まで出ていた九州の会社のCMがあたのですが、
死後もCMを流してほしいと、
彼の死をマスコミの発表よりも先にこの会社に知らせていたそうです。

 

著作権の管理

高倉健は莫大な財産を残してきました。

CMだって1本1億という金額です。

映画の出演料は1本1億円。

生涯年収は100億円を超えていたと言います。

そして不動産と金融資産を合計すると、
亡くなった時に総資産は40億円以上あったということです。

そしてこの小田貴は高倉健の財産を一括管理する、
高倉プロモーションの社長に就任しました。

自らが代表取締役となってから、全国の美術館で行われた
「高倉健追悼展」を企画して運営しました。

それから小田貴は高倉健の財産を色々と処分しました。

 

クルーザーや車を処分

高倉健は一時期車を20台ほど所有していたことがありましたが、
そういった車も、まだ使えるようなクルーザーも処分したのです。

 

自宅の解体

高倉健の自宅は世田谷区にあります。
そこは元妻の江利チエミが流産してしまった水子の墓の近くに住みたいということで、
2億円もかけて改築した家でした。
そんな家を小田貴は解体してしまったのです。

 

どうして養女になったのか

では、もし二人が親密な関係いあったのなら、
どうして結婚ではなく養女になったのか。

これは妻という立場よりも、養女のほうがこれからも入ってくる
映画などの権利収入など、様々な収入にも手に入れることができるからだそうです。

この辺りは法律を熟知している人物に色々とアドバイスを受けているようです。

まとめ

 

この養女に関しては残念な情報が多いので、
なんともやりきれない感情にかられます。

こんな素晴らしい俳優が亡くなった後にこんな噂をされるなんて、
とってもやりきれない思いです。

でも、高倉健は素晴らしい俳優でした。
彼は多くの人々を勇気づけてくれたのです。

彼のかっこいい立ち姿と、素晴らしい演技力で
昭和と平成の日本を飲み込んでくれました。

上述したように、高倉健は日本一の映画俳優です。
だからこれからも高倉健の映画を見ていきたいと思います。

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