三国連太郎って素晴らしい俳優でしたよね!
本当に日本を代表する俳優で、
容姿も生き方も本当にかっこよかった。

 

こんな素晴らしい俳優を輩出できた、
昭和という時代は本当に素晴らしかったと思います。

 

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三国連太郎のプロフィール

NAME 三国連太郎

REAL NAME 佐藤政雄

DATE OF BIRTH 1923年(大正12年)1月20日 - 2013年4月14日(没)

OCCUPATION 俳優、映画監督

HEIGHT 181㎝

WEIGHT 75㎏

FROM 群馬県太田市生まれ

BLOOD TYPE AB型

 

 

日本を代表する個性派俳優の1人として、日本映画界をけん引してくれた存在です。
デビューして以来、色々な映画に出演してきました。

社会派の作品から、中国との国際合作映画や、
娯楽映画など、主演助演を問わず幅広く出演しています。

その出演本数は180本にもなっています。

また、役作りに対する情熱は素晴らしく、
それが三国連太郎の真骨頂とまで言われています。

 

三国連太郎の生い立ち

三国連太郎の母親の家庭は、彼女が16歳の時に離散してしまったのです。
そのために、彼女は広島県呉市にある、
海軍軍人の家に女中奉公に出されたのですが、
そこで三国連太郎を身ごもってしまったために、そこを追い出される羽目になってしまったのです。

それから故郷に帰る途中であった、静岡県沼津駅でその後の夫となる男性と出会い、
この男性が三國の育ての父親となったのです。

ということで三國は自分の本当の父親との面識は一切ないものと思われます。

 

そこで、もしかしたらハーフなのではないかという説です。

 

しかし、広島の呉市は日本海軍の本拠地とも言われており、
言い換えれば日本海軍の総本山とも言える場所だったのです。

三國連太郎の母親は、そこで三國を身ごもったということは、
普通に考えれば、そこにいた日本海軍の軍人の子供を身ごもったことになります。

ただ、あの時代の人にしては大柄な181㎝という身長と、
あの顔つきから、ハーフである可能性を論じられてもおかしくないと思われます。

ただ、真相は闇の中です。

 

女優・太地喜和子との関係は

太地喜和子と言えば、三國連太郎と激しい恋に落ちら女優ということで有名です。

太地喜和子は東宝ニューフェイスに、1959年(当時15歳)で合格したのです。
高校に通いながら演技にレッスンを受けて、1960年に当方からデビューしました。

それから2年後、彼女が19歳の時に当時39歳で子供もいた
三國連太郎と激しい恋に落ちてしまったのです。

 

当時、北海道で映画撮影中だった三國をわざわざ追いかけていったというエピソードも残っています。

それから2人は同棲を始めたのですが、
たったの半年で三國が逃げ出してしまい、破局してしまったのです。

一説には、3か月で終わったとも言われています。

その後、太地喜和子は秋野太作と結婚しますが、
直ぐに離婚して、中村勘三郎(当時・勘九郎)と交際をしていした。

しかし、後年になって本当に愛したのは三國連太郎だけだったと語っています。

 

三國連太郎の旅立ちを西田敏行が悲しむ

三國連太郎は急性呼吸不全のために、90歳で帰らぬ人となりました。
これを受けて、「釣りバカ日誌」で22作に渡って共演した西田敏行が悲しみのコメントを寄せました。

2人は1988年の同作品から2009年のファイナルまで共演し続けたのです。
三國の旅立ちは非常に残念だったようで、次のようなコメントを残しています。

 

「いつかこんな日が来ると覚悟はしていたものの、
現実にその時が来たと知らされると、にわかには信じられません」

 

「スーさん、ハマちゃん」は本当に面白かったですから、
私たちファンとしても、あの名コンビが見られないのは非常に残念です。

 

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息子である佐藤浩市との不仲

女性関係が派手だった三國は、生涯で4度の結婚をしています。
息子である佐藤浩市は、三國連太郎の3人目の妻の子供として生まれました。

しかし、浩市が小学校6年の時に、三國はその家庭を捨ててしまったのです。
そのことがきっかけで佐藤浩市と三國連太郎の間には大きな確執が生まれたのでした。

そして自分は絶対に俳優にはならないと心に決めたのですが、
やはり俳優の息子は俳優になったのでした。

 

佐藤浩市が19歳の時に、三國のマネージャーの勧めで受けた
NHKドラマのオーディションに見事合格してしまったのです。
しかも、いきなり主役に抜擢されてしまったのです。

でも、この時の三國の反応は非常に冷淡なものだったと言います。

2人の初共演は1986年の「人間の約束」でしたが、
この作品内での接点はほとんどありませんでした。

 

 

そして時は10年が流れて、遂にあの「美味しんぼ」で共演を果たしたのでした。

佐藤浩市が山岡士郎を演じて、三國連太郎が海原雄山を演じたのでした。

この原作漫画の美味しんぼでも、山岡と海原は確執のある親子だったので、
佐藤と三國の実生活での確執も相まって、最初から話題になりました。

 

そんな2人は制作発表の時から火花を散らしていました。

 

そして、お互いを三國さんと佐藤君と呼び合うなど、他人行儀な感じだったのです。

また、記者会見の時に、佐藤が俳優はサービス業というと、
三國がサービス業という考えは間違っていると非難して、
会場は不穏な空気に包まれたのでした。

それを受けて、栗田役の羽田美智子が必死に作り笑顔をしていました。

そしてこの共演から3年後に佐藤浩市は次のように述べています。

「誰にとっても父親というのは越えなければならない山だけど、
自分の場合はひときわ大きな山で、そのことで苦労した。
とはいえ、彼の映画には知らず知らずのうちに影響を受けています」

父と子の確執というのは、やはり言葉を超えた何かがあるのだと思います。
そしして色々な思いを経て、2人はとても良い関係になったようです。

美味しんぼの最終回ネタバレ!山岡と海原の和解?栗田との結婚は?

孫の寛一郎について

佐藤浩市の息子で、三國連太郎のまごである寛一郎についてです。

映画「菊とギロチン」で俳優デビューをしました。
寛一郎が佐藤浩市の息子であることは伏せて宣伝さたので、
キャスティングに佐藤浩市は一切かかわっていませんでした。

佐藤は息子の役者としてのデビューを全く手助けしていなかったのですが、
実は佐藤も三國から全く手助けを受けていなかったのです。

そこで自分で色々なオーディションを受けて回り、自分で役を勝ち取ったのでした。
いったん役者としてデビューすると、めきめきと頭角を現して、
日本を代表する実力派人気俳優へと駆け上がっていったのでした。

佐藤と三國の確執は上述した通りでしたが、
その2人の距離を縮めたもう一つの要因が、この寛一郎なのです。

寛一郎が生まれると、それまで頑なだった三國の態度が一変したのです。
三國は自分のことをレンちゃんと呼ばせて、
誕生日や運動会には100%駆け付けたのです。

この寛一郎がかすがいとなって、
2人の心の距離が徐々に狭まっていき、2人は談笑することも増えていったのです。

 

そして2009年の春、寛一郎の小学校の謝恩会で、
「奇跡の共演」が実現してしまったのです。

親による出し物で、佐藤と三國が2人だけの朗読劇をやってのけたのです。
しかもこの時の脚本は、佐藤の頼みで三谷幸喜が書いたものでした。

プロの役者2人が演じた朗読劇は、小学校の謝恩会には豪華すぎるものでしたが、
その会場は笑いと感動の渦に包まれました。

そしてこれを見た寛一郎もとっても喜んでいたそうです。

 

寛一郎デビューのきっかけ

 

この寛一郎ですが、もともとは音楽に興味があり、
役者の道には興味がなかったようです。

しかし、祖父の三國連太郎の葬儀に参列した時に声をかけられたことがきっかけでした。
それから演技について考えるようになり、
祖父と父の映画を役者目線で見るようになったのです。

その後に寛一郎はアメリカに留学を経験したのちに、
「菊とギロチン」で映画デビューを飾ったそうです。

 

まとめ

三國連太郎は、日本の宝でした。

90歳でこの世を去っても、いまだに私たちの心の中に生き続けています。

本当に素晴らしい存在でした。
これからも彼な役者が一人でも多く出てくることを望んでいます。

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