長門裕之ってもう、
何十年も日本の芸能界に君臨した、
重鎮の仲の重鎮でしたね!

年を取れば取るほど芸に磨きがかかっていった印象があります。

本当に素晴らしい役者でした。
晩年は渋い俳優で、悪役なんかを見事にこなしてましたね。

 

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長門裕之のプロフィール

長門 裕之

ながと ひろゆき

1934年1月10日生まれ

2011年5月21日没(77歳)

京都府出身

津川雅彦は芸能一家の一員です。
先ず、妻は南田洋子で弟は津川雅彦と有名です。

そして父は村沢国太郎で母はマキノ智子です。
叔父が加東大介で叔母は沢村貞子となています。

そして祖父は牧野省三で、日本映画の父と呼ばれています。

このような錚々たるファミリーメンバーの一員が、長門裕之なのです。

そしてあの元阪神タイガース監督の吉田義男は
立命館大学時代の同期ですが、2人とも大学を中退しています。

長門裕之の映画初出演は6歳の時で、『続清水港』という1940年の作品でした。
当時の芸名は沢村アキヲでした。

長門裕之は戦前から名子役として芸能界では知られた存在でした。

学生時代は学業を優先して俳優活動はしていなかったのですが、
終戦後、日活に入社しました。

それから『太陽の季節』に主演して、
デビューしたばかりの石原裕次郎とも共演しました。

1961年に南田洋子と結婚しました。
翌年の1962年には日活を退社して、1964年には南田洋子と
「人間力プロダクション」を設立したのです。

しかし1985年には、その後の芸能活動に
大きな影響を与える暴露本を発売したのです。

それは『洋子へ』というタイトルで、長門裕之の奔放な女性遍歴を
赤裸々につづったもので、暴露本として世間を騒がせたのです。

これを受けて実名を書かれた池内淳子たちが猛反発して、
長門裕之サイドは初版を回収して、
問題となった部分を修正して、
新聞で池内淳子に対する謝罪広告を掲載したのです。

これに対する長門裕之の弁明は、
これはすべてゴーストライターがしたことで、
そのあたりの真意を理解していなかったということです。

ただ、結果として、長門裕之と南田洋子は
出演番組やCMを降板しなくてはいけなくなってしまったのです。

そしてこれがその後の2人の芸能活動に大きな影響を与えたのでした。

また、この一連の騒動をワイドショーは連日のように追いかけました。
そして長門裕之はその本を机に叩きつけて、
「こんな本はダメなんです!」と絶叫するシーンが何度も繰り返し放送されたのです。

その後は徐々に信頼を回復して、
ドラマなどで悪役などをこなすようになっていったのです。

それから晩年は長い間確執があったとされる兄の津川雅彦とも関係を回復していき、
津川雅彦が監督する映画にも出演していったのです。

長門裕之と桑田佳祐が似ている

長門裕之の役者としての実力が開花したのは日活時代でした。
「太陽の季節」(56年)に主演して、南田洋子と出会い後に結婚したのです。

特に今村昌平監督との名コンビ話題となった、
日本の映画史に残る作品を世に送り出したのです。

それは「にあんちゃん」(59年)「豚と軍艦」(61年)でした。

その頃の日活というのはアクション路線が軸だったのですが、
それとは雰囲気がかなり違ったもので、独特の存在感を放っていたのです。

そしてこのころの顔立ちが、あのサザンオールスターズのボーカルの
桑田佳祐に劇にしており、妻の南田洋子も桑田に実際に会った時にこう言いました。

「似てるわねえ!!」

このエピソードは非常に有名なものです。
でも本当に似ていますね!

もしかしたら南田洋子が母親なのではと思ってしまうくらいの激似ぶりです。

 

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桑田佳祐の両親は誰なのか?

桑田佳祐もこの南田洋子と長門裕之との出来事は、
とても大きな印象に残った出来事のようです。

そしてラジオでもこのことについてたまに語っています。

では、桑田佳祐の両親は一体なにをしていたのでしょうか?
とても気になるところです。

調べてみたところ、桑田佳祐の父親は満州か大連に住んでいて、
戦後はそこから引き揚げて茅ケ崎で映画館の支配人をしたり、
妻(桑田佳祐の母)とバーの経営をしたりしていたという情報があります。

2人とも一般人で、すでに亡くなられているようです。

まとめ

長門裕之も人生で色々とあったようですが、
役者としては本当に素晴らしい役者だったように思います。

もうあの演技が見られないのは残念ですが、
これまで残してくれた彼の作品を見ていきたいと思います。

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