明石家さんまって面白いですね。

日本中を何十年も笑いの渦に巻きこんでいます。
そのくらい面白いし、その人気を保ち続けています。

これって本当にすごいんです。
そして昔からイケメンですね。

学生時代のバレンタインデーには明石家さんまの前に、
女の子の列ができたと言いますから、
本当にすごいモテモテ伝説があったのだと思います。

ということで、今回は明石家さんまについて迫ってみましょう。

 

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明石家さんまのプロフィール

明石家 さんま

あかしや さんま

 

本名は杉高文

すぎもと たかふみ

 

1955年7月1日生まれ

和歌山県出身

172㎝

配偶者 大竹しのぶ(1988年 - 1992年)
親族 IMALU(実娘)

やっぱりイケメンですよね!
カッコしいいし、面白い。

これならモテモテ伝説も理解できます。
本当に、何十年も日本人の心を明るくしてくれるって素晴らしいですね。

明石家さんまは永遠です。

さんまが日航機墜落事故を回避した?

1985年8月12日に発生した事故を覚えている人も多いのではないでしょうか?
そう、日本航空123便墜落事故のことです。

日本航空123便が羽田から伊丹へと向かう途中で異常をきたし、
高天原山に墜落した、日本国民が知っている大きなニュースです。

当時を知るものとしては、忘れられない衝撃でした。

520人の乗客が命を落として、4人だけが生存していた
日本航空123便なのですが、あの明石家さんまも乗ることになっていたのでした。

しかしある事情から乗らないことになったのです。
そのために、命が助かったのでした。

日本航空123便に乗らずに済んだ理由

明石家さんまは1985年8月12日に、東京で「オレたちひょうきん族」の撮影があったのです。
その後で日本航空123便に乗って大阪に行って、
「MBSヤングタウン」というラジオ番組に出る予定だったのです。

しかし8月12日の「オレたちひょうきん族」の撮影がかなり早く終わったため、
日本航空123便よりも早い便に乗ることになったのです。

だから「オレたちひょうきん族」の撮影が早く終わったために救われたのです。

もし、あの時日本航空123便に明石家さんまが乗っていたら、
その後の明石家さんまはなく、
日本中の人々をそれから何十年にもわたって笑わせることはありませんでした。

明石家さんまが娘にIMALU(いまる)と命名した理由

それから、明石家さんまは女優大竹しのぶと結婚したのです。
それがタレントとしても活躍する、IMALU(いまる)なのです。

でも、このいまるという名前はちょっと風変わりな名前ですね。
あまり一般的な感じではありません。

なぜ明石家さんまが「いまる」と命名したのか?

その理由は、いまるはあの事故から4年後に生まれたのです。

その時に、明石家さんまはあの飛行機に乗っていたら命はなかったと考えて、
「生きてるだけで丸儲け」という名言を残して、自分の子供に「いまる」と命名したのです。

一方の妻であった大竹しのぶは、「今を生きる」という思いを込めて「いまる」としたそうです。

2人とも、自分の子供に思いを込めて命名したようですが、
どちらにも共通するのが「生きることの尊さ」が込められているのだと思います。

初めて「いまる」という名を聞いた時には、かなり風変わりな名前だと思いましたが、
こんな素晴らしい意味が込められていたんですね!

 

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明石家さんまの生い立ちは?

あの明るい笑顔の明石家さんまです。
本当に、いつもいつも私たちを笑わせてくれて、日本国民が感謝しています。

でも、その生い立ちはかなり複雑で悲しいものがあったようです。

明石家さんまは和歌山県で生まれました。
さんまには正樹という兄が一人います。

ただ、さんまが3歳の時に大好きだったお母さんが病気のために亡くなってしまったのです。

そこでさんまのお父さんは、さんまが小学生の時に再婚したのです。
父が連れてきた継母には連れ子がいたのです。

さんまよりかなり歳が下の弟ができたわけです。
そのことにさんまはとても喜んだそうです。

しかし、その継母は自分の子供だけを可愛がったそうです。
そういったことで、さんまと継母の間には大きな溝が入りました。

そこで継母に心を開いてもらおうと、
毎日毎日面白いことを考えた、それがお笑い芸人になるきっかけだったようです。

それでも継母との関係は修復できなかったのです。

それどころか、その継母は隣の部屋で酒を飲みながら、
「うちの子はお前だけやで」とその弟にだけ言っていたそうです。

それをさんまと兄の正樹は聞きながら、泣いていたそうです。
このことが原因で、さんまはお酒を飲む女性が苦手になったのです。

最愛の弟の死

このように、継母からは相当な差別を受けていたのですが、
さんまはその弟のことをずっと可愛がり続けたそうです。

弟はサッカーが上手く、サッカー部のキャプテンにもなって、
それでインターハイにも国体にも出場していたのです。

それで一緒にワールドカップを見に行こうと約束していたのです。

しかし、これだけ溺愛していた弟が19歳の時に火事で焼死してしまったのです。
当時さんまは冠番組を持っていたほどの人気者でした。

ただ、この弟の死がショックでうまく笑いが取れなくなってしまったのです。

そんなさんまを救ってくれたのが、オール巨人だったのです。

共演した時の舞台で、オール巨人は際どいボケをかましたのです。

「お前んち、弟を焼いたらしいな!!」

これで怒り出す人もいるのは確かですが、
さんまはこれをオール巨人からの励ましだととらえて、
そこを上手く笑いで切り返したのです。

「そや、材木切れたから代わりに焼いたんや!!」

このように、さらに素晴らしいボケで返していったのです。
この時、会場はその日一番のものすごい盛り上がりを見せたそうです。

それから後になってさんまはオール巨人に感謝して、次のように述べたのです。

「ありがとう。これで芸人やめんで済むわ。」

まとめ

明石家さんまって本当に面白いですね!
しかし、その笑顔の陰には色んな思いがあったのですね。

でも、もしかしたら、そういった様々な苦労があるからこそ、
ああいった素晴らしいお笑いを生み出すことができるのかもしれません。

だからやっぱりさんまってすごいんです。
こんな明石家さんまの歴史を知ると、
彼の笑いをもっと違った角度から見れるかもしれませんね。

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