長嶋茂雄って日本国民の誇りですよね。
もう、野球選手という枠を超えて、国民的な大スターだったと思います。

読売巨人軍の選手として、監督として、
本当に素晴らしい実績とパフォーマンスを私たちに見せてくれました。

選手としてもものすごい成績を残してくれましたからね。
とにかく何をやっても花のある人でした。

ということで、今回は長嶋茂雄について迫ってみましょう。

 

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長嶋茂雄のプロフィール

長嶋 茂雄

ながしま しげお

1936年2月20日生まれ

千葉県生まれ

B型

178㎝

76㎏

読売ジャイアンツ終身名誉監督

「ミスタージャイアンツ」「ミスタープロ野球」
「ミスター」「チョーさん」「燃える男」

 

 

やっぱり花がありますね!
カッコいいし、とにかく人を惹きつけるものがあります。

やっぱりスターっていうのは、なにか持ってますよね。

長嶋茂雄は子供のころから野球をみていて、大阪タイガースの藤村富美男や
東映フライヤーズの青バットこと大下弘にあこがれて、
プロ野球選手を志すようになったのでした。

そのために、当時の関東に住む少年には珍しく阪神ファンだったのです。

小6の時に地元の野球チームハヤテ・クラブに入り、ショートとして活躍していました。

ずっと無名の選手でしたが、高校の時のある試合から急に注目されるようになったのです。
それは1953年8月1日に行われた試合で、高校時代唯一となるホームランを打ったのでした。
これは鋭いライナー性のあたりで、バックスクリーン下の芝生へ届き、
当時の新聞は約107メートルと書いていました。

それがもとで、長嶋茂雄は野球関係者から注目を集めることとなったのです。

その後は立教大学に進み、
杉浦忠投手(南海ホークス)、本屋敷錦吾内野手(阪急ブレーブス、阪神)
と3人で立教三羽烏と呼ばれたのでした。

そして初めは南海ホークス入りが濃厚とされていたのですが、
読売ジャイアンツに入ることになったのです。
契約金は当時としては破格の1800万円でした。
年俸は200万円。

そこからは、もう説明の必要がないほどの大活躍を見せてくれたのでした。
長嶋茂雄はスーパースターとなり、
野球という枠を完全に超えた日本が誇る国民的スターとなったのです。

長嶋茂雄の名言

スランプなんて気の迷い。ふだんやるべきことを精一杯やって、
土台さえしっかりしていれば、スランプなんてありえない。
ぼくはいつも、「オレは絶対打てる」という気持ちでボックスに立っていますよ。

 

雨を喜び、風を楽しみ。

 

口惜しかったさ、そりゃもう。
でも、あれほどいい三振もなかった。あれほど生きた三振というのもなかった。

 

プロなら陰の苦労や苦悩を人前でみせるべきでない。

努力してますと練習を売り物にする選手は、プロフェッショナルといえない。

 

野球選手には人間関係で悩む暇などない。
すべてはバットを振り、ボールを追いかけることで解決すべきなのだ。

 

英語で「サムシング」といいますね、「何か」。
そのサムシングをつかむのは、理論でもトークでもない。
やっぱり心と心のぶつかり合いですよね。

 

若いプレイヤーが昔のように心から感動したり、感動しきれない。
それは、やはり時代でしょう。だけど感動を知らない人生というのは、
何か生きている味わいみたいなものがないわけです。
感動はスポーツばかりじゃありません。あらゆるジャンルにある。
何かに感動しながら日々新たな気持ちで挑戦して行く。
これこそ生きる上での一番の王道と言えるのではないでしょうか。

 

挫折してもプライドは失わない、それは努力しているからだ。

 

デビュー開幕戦でも4連続三振。
監督としても最初は最下位。
あとはよくなるばかりだと思うしかなかった。

 

 

あの華やかでスターだった長嶋茂雄の名言は本当に重いですね!
でも、栄光の陰には多くの苦渋もあったみたいです。

最後の名言のように、デビューも4三振して、
監督としても最下位だったというのですから、屈辱からのスタートですね。

きっとあの華やかな姿は、人の見えないところで、
人一倍の努力をしたから見せられた姿なのかもしれません。

あの王貞治を育てたとされる荒川コーチが言っていたのですが、
世間一般には「天才長嶋、努力の王」といったイメージがあるようですが、本来は逆だと言うのです。

「王が長嶋くらい努力していたら」

というのは荒川コーチの本音なのです。

というのも、遠征先のホテルで、3時に自分の部屋に呼ぶと、
時間になると、涼しい顔でバットをぶら下げて来るのが王貞治で、
汗びっしょりになってからくるのが長嶋茂雄なのだそうです。

長嶋は自分の部屋でもうさんざんバットを振ってから、荒川のところへ来ていたのでした。
このエピソードには驚きましたね。
けっこう、世間一般で語られているイメージとは違うものなんですね。

 

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長嶋茂雄伝説!

伝説1. 銀行口座

若き日の長嶋が巨人に入団した時の契約金のほとんどを預金しました。
しかし、どの銀行に預けたのかを忘れてしまったのです。

 

伝説2. 英語

大学時代の英語の問題で、「I live in Tokyo」を過去形に
という問いに対して「I live in EDO」と書いたのです。

 

伝説3. 徳光和夫を忘れる

熱狂的なジャイアンツファン、長嶋茂雄ファンで知られる徳光和夫さんに話しかけられ、
長嶋は「どなた様でしたっけ?」と聞き返し、徳光和夫は大きなショックを受けたのでした。

 

伝説4. そば談義の後のカツ丼

徳光和夫と蕎麦を食べに行き、その場で蕎麦屋の店主も交えて熱いそば談義を交わしたのです。
店主の蕎麦打ちを実際に見せてもらった後、
「血圧予防の効果もあって蕎麦はとても健康に良い」などと絶賛し、
席について注文したのはカツ丼だったのです。

 

伝説5. 靴下がなくなった

靴下が一足ないと試合前に大騒ぎしたのです。
他の選手も一緒になってみんなで靴下あのあたりを探したのです。
しかし全く見つかりませんでした。
どこにあったのかというと、長嶋茂雄が片方の足に2枚履いていたのでした。

 

伝説6. トリプルスリー達成ならず

新人の年にあと一歩のところでトリプルスリーという偉業達成までもう一息でした。
ホームランが29本で一本足りなかったのです。
ホームランを打ったのに1塁を踏み忘れてアウトになってしまったことがなければ、
見事トリプルスリー達成だったのですが。

 

伝説8. プライバシーがデモクラシー

結婚する前からスターの長嶋でした。
妻とのデートを記者に追い回されてブチギレ!
「いいかげんにしろ、僕にだってデモクラシーがあるんだ!!」

 

伝説9.四字熟語

なにか自分の好きな四字熟語を書いてと渡された色紙に、
なんと「長嶋茂雄」と書いたのでした!

 

伝説10.囁き戦術が通用せず

野村克也の囁き戦術は有名です。
野村克也がキャッチャーの時、打席に立つ長嶋に「次はスライダーを投げるぞ」と囁いてかく乱させようとしたのです。
しかし実際にはピッチャーにストレートを要求したのです。
ところが長嶋はそのストレートをホームランにしてしまったのです。
それから長嶋さんが野村克也に、「スライダーを投げちゃダメじゃないか」と言ったそうです。

 

伝説11. 還暦を迎えて

還暦の感想を記者に問われて、「初の還暦を迎えました。」

 

伝説12. 息子の一茂を球場に置き忘れた

当時のジャイアンツの本拠地だった後楽園球場に
一茂を連れて行って、野球観戦をしました。
しかし、試合にエキサイトしすぎて一茂を球場に忘れて帰り、
後楽園球場からの電話で思い出したのです。

 

伝説13. 広すぎる守備範囲

とにかく目立ちたがり屋の長嶋茂雄は、ショートゴロもたくさん取っていました。
しかし、目立ちたがり屋のためにセカンドゴロも2回取ったのです。

 

伝説14. アメリカのマクドナルド

アメリカに行った時に、マクドナルドの看板を見て、
「ああ、アメリカにも進出してるんだ!」とつぶやいたのです。

 

伝説15. アメリカの子供について

アメリカに行った際に、アメリカの子供を見て一言、「こっちの子は英語がうまいな」

 

伝説16. この回に逆転しないと

解説者をしていたころのことです。
9回裏の攻撃に「この回で逆転しないともう後がないですね」と当たり前の一言。

 

伝説17. 一点でも多くとったほうが勝ち

これも解説者時代の話ですが、試合展開について尋ねられて、
「この試合は一点でも多くとったほうの勝ちでしょうね」と当たり前の一言。

 

伝説18. 燃えよドラゴンズ

中日の応援歌である「燃えよドラゴンズ」を、
「この曲は前に中日にいた板東英二が歌ってるんだよ」と板東英二本人に向かって説明したのです。

 

伝説19. パーフェクトと言うな

ジャイアンツの槇原が完全試合達成を目前にしていた時のことでした。
選手全員を集めてこういったのです、

「槇原にプレッシャーを与えないために、パーフェクトと言うな。」
でも、その選手の中に槇原もいたのです。

 

伝説20. 大声で指示

監督時代にベンチから叫んでピッチャーにこう伝えたのです。
「変化球はだめだ、まっすぐで攻めろ!」
しかし、これでストレートに狙いを定めたバッターがホームランを打ったのです。

長嶋茂雄の背番号が3になったワケ

長嶋茂雄の背番号と言えば「3」です。
この番号には多くの少年があこがれていました。

しかし、入団時には別な番号が提示されたのです。
それは、「15」という番号でした。

これは監督であった川上哲治から勧められたのです。
川上の考えは、「14」は沢村栄治、「16」は川上哲治であるから、
長嶋が「15」で活躍すれば、「14」「15」「16」と3つ連続で永久欠番になってくれればというものでした。

しかし、長嶋がこれを拒否して、前年まで千葉茂がつけていた「3」を選んだのでした。

長嶋が「15」を辞退した理由は、「一桁がよかった」とか「15は恐れ多い」という説があります。

なにはともあれ、最初に「15」を提示されたのですが、
結局は「3」を選んだということだったのです。

まとめ

長嶋茂雄ってやっぱり国民的スターです。
野球というスポーツをここまでメジャーにしたのは長嶋茂雄なのかもしれません。

本当に野球という枠を超えて、我々を大いに楽しませてくれました。

実際の野球でも我々を惹きつけて、
解説者でも我々を楽しませて、監督としても多くの話題を提供してくれました。

本当にすごい人だったんだと思います。
これからも長嶋茂雄に期待していきましょう!

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