フライデー襲撃事件ってご存知でしょうか?

あのビートたけしとたけし軍団が起こした事件です。
この事件なのですが、当時の日本では大きな話題となりました。

ビートたけしがたけし軍団を引き連れて、
フライデーを発行する講談社に出向いていったという事件です。

もう、あの頃は日本中が大騒ぎになりましたね。

ということで今回は、フライデー襲撃事件について迫ってみたいと思います。

 

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フライデー襲撃事件とは

フライデー襲撃事件

1986年(昭和61年)12月9日に発生

ビートたけし自分の持つがたけし軍団ら12名を引き連れて、
写真週刊誌『フライデー』の編集部に乗り込んでいった事件です。

この件でビートたけしは1987年6月10日、
懲役6か月、執行猶予2年の判決が下されました。

この当時のビートたけしのレギュラー番組への出演は、
8か月間の間謹慎することになったのです。

その原因は1986年12月8日に、
ビートたけしと交際していた専門学校生の女性に対して、
たけしとの関係を聞こうとして、体を掴むなどをして怪我をさせたことが発端でした。

これにたけしは怒り、フライデーの発行元である講談社に電話をして猛抗議をしたあと、
自らの弟子であるたけし軍団を引き連れて講談社に乗り込んだのです。

そしてここでも乱闘になってしまったのです。

これに関してマスコミは事件を事細かに報道して、大きく取り上げていました。
また、スポーツ紙はほとんど毎日事件を報道して、売り上げを伸ばしたのです。

ただ、たけしは後に発売された著書の中で
本当は一発殴っただけで後はみんなで飲みに行くつもりだったと語っています。

ビートたけし出演番組への影響

『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』(TBS)はたけしの着ぐるみを登場させました。

『たけし軍団!ヒット&ビート』(テレビ朝日)はたけしの謹慎により事実上の打ち切りとなりました。

『ビートたけしのスポーツ大将』(テレビ朝日)もタイトルを
『スポーツ大将』と変更して、事件に参加しなかったメンバーで行っていました。

『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(日本テレビ)は社長のたけしは海外出張中であるとして、
代役は山田邦子(当時26歳)が務めました。
また、この番組のタイトルは『元気が出るテレビ!!』となったのです。

『スーパーJOCKEY』(日本テレビ)も司会の代役は山田邦子が務めました。

 

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フライデー襲撃事件につまみ枝豆を呼ばなかったワケ

このフライデー事件ですが、参加できなかったメンバーが数名いました。
それは、字で入院していたラッシャー板前と
彼女の家にいて連絡が取れなかった井出らっきょ、
そして家にいたけれども連絡がこなかったつまみ枝豆です。

たけし軍団の中でもつまみ枝豆は、忠誠心が高いことで有名です。
たけしのためなら死んでもいいと思うくらいの男でした。

そんな枝豆の気持ちを知っていたのか、
たけしは枝豆にだけは連絡を取るなと言っていたのです。
それで枝豆は事件のことを、報道で知ったのです。

そしてたけしとみんなを心配する枝豆でした。
そんな時、一本の電話が鳴ったのです。
それは警察署にいるあのビートたけしからでした。

「枝豆、悪い、お前のことは俺が一生面倒見るから、今は動かないでくれ」

なぜビートたけしは枝豆を呼ばなかったのか。
その理由は、枝豆が一番血の気が多い人間だということを知っていたのだと思われます。

若い頃の枝豆はヤンキーよりもすごく、
一時期は右側の団体に入っていたこともあります。
そのためにたけし軍団一の武闘派として知られていました。

怒り心頭だったたけしも、こういった部分では冷静さを保っていたのですね!

講談社に向かうエレベーターの中で

ビートたけしは軍団を引き連れて、講談社に向かうところでした。
エレベータの中は、とても殺伐とした雰囲気だったようです。

みんなこの事件で将来がダメになったらなど、色々考えていたのでしょう。

そんな時、たけしは軍団にエレベーターの中でこう言いました。

「もしこれでお前らの将来がダメになったら、俺が一生面倒みてうやる。」

その言葉に軍団はいたく感動して、一致団結したそうです。
弟子を思いやる気持ちの強い人ですね!

まとめ

ビートたけしって、器の大きい人なんですね。
だから、ああいった事件を乗り越えて、
さらに芸人として映画監督としても成長していくことができたのだと思います。

これからもビートたけしを応援していきましょう!

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