アントニオ猪木ってカッコよかったですよね。

強くて、かっこよくて、日本を代表するプロレスラーでした。
初期のプロレスって本当に昭和を象徴する感じがありますよね。

ただ、アントニオ猪木はプロレス以外にも、
かなり実業家としての顔を持っていることも事実なんです。

ということで、今回はアントニオ猪木について迫ってみましょう。

 

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アントニオ猪木のプロフィール

アントニオ 猪木

アントニオ いのき

英: Antonio Inoki

1943年2月20日生まれ

本名は猪木寛至

いのき かんじ

神奈川県出身

AB型

190㎝

若い頃は本当にイケメンでしたね!
カッコよかったです。

そして素晴らしいリング上でのパフォーマンスを見せてくれました。

日本のプロレスをここまで大きくしてくれたのは、
やっぱりアントニオ猪木の存在が一番だったのではないでしょうか?

もともと猪木の実家は石炭やをやっていたのですが、
エネルギーが石炭から石油に代わったことで倒産してしまったのです。

そういったことで少年時代の生活はとても厳しかったようです。

そして13歳の時にそのとてつもない貧困を抜け出したいという希望から、
母親、祖父、兄弟とともにブラジルへ移住したのでした。
とても勇気のいる行動ですね!

見知らぬ海外に行って、それで貧困から抜け出すというのは、
かなり怖い決断だったのではないでしょうか?
この頃から「燃える闘魂」があったのかもしれません。

ブラジルでは、サンパウロ市近郊の農場で暮らしていました。

ブラジル移住して最初の最初の1年半は、
農場で早朝5時から夕方の5時まで、主にコーヒー栽培を中心に過酷な労働をしていたのでした。

ただ、子供のころは運動神経が鈍く、
友達からは「ドン寛(鈍感)」「運痴の寛ちゃん」などと揶揄されていたようで、
その後のプロレスラーとしての将来とは全く違った感じですね。

しかしその後はブラジルで陸上競技選手として大会に出場して、
砲丸投げで優勝するなど、猪木の運動能力は徐々に発揮されていったのでした。

そんな時に、ブラジル遠征中の力道山がたまたま猪木を目にしたのでした。

時は1960年(昭和35年)でした。
プロレス興行でブラジルを訪れていた力道山から直接スカウトされたのです。
そして日本へ帰国して、日本プロレスに入ったのでした。

最初は本名の猪木寛至としてデビューして戦っていたのですが、
1962年にリングネームをアントニオ猪木に改めたのでした。

その後は日本のプロレスを背負ってたつ人物として、
もう説明の必要がないくらいの人物になりました。

アントニオ猪木が日本にタバスコを持ち込んだのか?

 

アントニオ猪木とYAHOOで検索すると、
「タバスコ」「権利」といったたの検索候補が出てきます。

 

そしてネットには猪木が日本にタバスコを持ち込んだのかという噂があります。

タバスコは西洋料理のピザやパスタに使う料理のスパイスで、
アントニオ猪木は若い頃ブラジルに住んでいて、帰ってきたという経歴があります。

そういったところから考えると、ありそうな話ではありますね。
もしかしたらと考えてしまいます。
都市伝説になりそうな素材ではあります。

ということでこの噂について調べてみました。

実際にタバスコが日本に入ってきたのは、昭和20年代と言われています。
その頃、アントニオ猪木はまだ小学生でブラジルに移住する前の段階でした。

ということでアントニオ猪木が日本にタバスコを持ち込んだ人物というのは事実ではないようです。

では、どうしてアントニオ猪木とYHAOOで検索すると、
「タバスコ」「権利」といった検索候補が現れるのかが疑問です。

それを調べてみると、1970年代にタバスコが日本で有名になったのです。
それをやったのが、アントニオ猪木なんです。

これは当時アントニオ猪木が経営していたアントントレーディングという会社が
大々的に日本で宣伝したことが始まりだったのです。

テレビCMなど色々なメディアにでてタバスコを宣伝していたようで、
最初のCMではあの初代タイガーマスクと共演しています。

といういことで、タバスコを日本でメジャーにしたのが猪木であって、
猪木が持ち込んだということではないようです。

ただ、「権利」ということについていえば、
アントニオ猪木が代理店契約を結んで宣伝していたという部分だと思われます。

タバスコ(Tabasco、タバスコソース)は、メキシコ・タバスコ州原産のキダチトウガラシの一品種
チレ・タバスコ(タバスコペッパー)を使った辛味調味料である。

アメリカ合衆国ルイジアナ州エイブリー島に本社を置くマキルヘニー社
(McIlhenny Company) の創業者が1865年に考案し、
現在も同社が商標権を持つ(日本における商標登録番号は第1002001号ほか全6件)アメリカの調味料である。

プロレスラーのアントニオ猪木が経営していたアントントレーディング社が
1970年代に代理店契約を結び、日本人にその味を定着させた。
なお猪木は初代タイガーマスク(佐山聡)とともにCM出演の経験がある。

WIKIPEDIAより引用

 

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アントニオ猪木の名言『道』について

この道をゆけばどうなるものか、危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし、
踏み出せばその一足が道となり、その一足が道となる。
迷わず行けよ 行けばわかるさ。

 

この「道」と題されたアントニオ猪木の名言は、
東京ドームで1998年4月4日に行われた引退記念試合後のスピーチで、
アントニオ猪木がドームの観衆に向かって披露した言葉です。

引退記念試合の後のスピーチという大舞台で披露するほど、
アントニオ猪木の人生を表すような言葉であったと考えられます。

少年時代にブラジルへ渡り、力道山にスカウトされて日本プロレス入団、
その後はアメリカ武者修行をj経て、新日本プロレスの旗揚げなど様々な挑戦をしてきました。

そして、プロレスの名を世界に轟かせるために、思い切った賭けに出ました。

それは、あのボクシングの世界チャンピオンのモハメド・アリとの異種格闘技戦といったものでした。
この闘いでアリは猪木にファイトマネー18億円を要求したのです。
放映権料や入場料などを差し引いても、9億円の借金が残りました。

このように、結果を臆することなく誰も進めなかった「一足」を踏み出し、
壮大な人生を描いた猪木の人生そのものを表している言葉だと思います。

名言『道』の3つのポイント

ポイント1 勇気を出すことの大切さ

この道を行ったらどうなるかという、不安や恐怖を乗り越えて、
とにかく一足踏み出すことが大事であると言っています。

 

ポイント2 行動することの大切さ

その一足を踏み出すことで、自然とみちができると言っています。
あれこれ考えすぎて行動できなくなるよりも、まず行動することによって開けてくると言っています。

 

ポイント3 確実に成長できる

コンフォートゾーンを抜け出し、未知の領域に入った時に、
人間は確実に成長すると言っています。

身の危険を思うばかりで常にコンフォートゾーンにいると、
飛躍的な成長は遂げられませんが、そこから積極的に出ていくことが大切だと説いています。

まとめ

やっぱりアントニオ猪木ってすごい人なんですね!

本当にいろんなことをやってのけてきました。
プロレスで成功して、実業家でも成功して、そして猪木アリ戦で大借金を抱えたり。

その後は国会議員になって、湾岸戦争の時には自らトルコ航空機をチャーターしてバグダードへ入り、
在留日本人と全人質を解放させるといった素晴らしい活躍を見せてくれました。

このように素晴らしい行動力で色々なことを成し遂げてくれました。

これからももっとアントニオ猪木の活躍が見たいと思います。

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