原節子って本当に日本を代表する女優でしたよね!

戦後の日本を救った女優と言ってもよいかもしれません。
彼女の品のある美しさが、戦後の人々を勇気づけました。

日本が復興できたのも彼女のお陰かもしれない。

それは美空ひばりの歌声にも匹敵するものなのかもしれません。

ということで、今回は原節子に迫ってみましょう!

 

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原節子のプロフィール

原 節子
はら せつこ

本名
會田 昌江
あいだ まさえ

1920年6月17日生まれ
2015年9月5日(95歳没)

165㎝

神奈川県出身

神奈川県で父:藤之助、母:ナミの子供として生まれました。
兄弟は男3人、女5人という昔の大家族でした。

兄弟が8人とかっていう時代ってあったんです。

大家族であったために、家庭の経済状況は大変でした。
原節子の姉である光代は、熊谷久虎という映画監督と結婚していました。

その熊谷久虎の勧められて、学校を中退して映画界に入りました。
中退までしたのには、家庭の貧しさからでした。

1935年に日活に入社して、『ためらふ勿れ若人よ』で映画デビューしました。

節子という芸名は、この作品の中で演じた役名からとったものです。

 

 

その後は数々の映画に出演して、
日本中の人気をさらっていきました。

まさに戦後の日本を席巻した女優でした。

また1946年9月には、資生堂のイメージガールに抜擢されました。
そして戦後初の多色刷りの原節子のポスターが、
町中に貼り出され、戦後の日本の街を華やかに照らしました。

そして戦後初の黒沢作品『わが青春に悔なし』の、
主演女優に抜擢されたのも原節子でした。

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感想(1件)

主な作品

映画
『わが青春に悔なし』(1946年 黒澤明)
『安城家の舞踏会』(1947年 吉村公三郎)
『お嬢さん乾杯』(1949年 木下惠介)
『青い山脈』(1949年 今井正)
『晩春』(1949年 小津安二郎)
『麦秋』(1951年 小津安二郎)
『めし』(1951年 成瀬巳喜男)
『東京物語』(1953年 小津安二郎)
『秋日和』(1960年 小津安二郎)

このように女優として大人気を博していた原節子ですが、
1963年に女優業から引退をしました。

それは小津安二郎監督が亡くなって、
その通夜に出席したのを最後に女優という仕事をきっぱりと辞めたのです。

この引退に関して、様々な説が飛び交いました。

「老いていく姿を見せたくない」
「撮影用のライトのために白内障になってしまった」
「戦前の国策映画に出演していたので責任を取って身を引くべきだ」

このような噂がながれていました。
しかし、映画監督の高橋治は原節子の引退の理由は
小津監督の死に殉じた形であると述べていました。

その後、きっぱりと表舞台から姿を消した原節子ですが、
1994年に東京都内の土地を売却して12億円を得たために、
全国長者番付75位になり、このとき再び話題になりました。

そして2015年9月5日、神奈川県内の病院にて、肺炎のために亡くなりました。

年を取られても、素敵で穏やかな笑顔と、気品はさすがですね。
彼女の女優魂が感じ取れます。

原節子のハーフの噂

原節子はハーフなのではないかという噂があるようです。
確かに目鼻立ちがくっきりして、とても美形ですから、
そういった噂が流れても仕方ないと思われます。

しかし、会田藤之助・ミナという名前です。

どちらもれっきとした日本人ですので、ハーフというのはやはり噂だけだったようです。
しかし、あの時代の人で、目鼻立ちがくっきりの美人ですから、
そういった都市伝説が流れるのも無理はありませんね。

しかも身長も当時の女性で165㎝ですから、相当にスタイルも良かったはずです。

これは余談ですが、タレントの出川哲朗とは遠い親戚にあたるそうです。

石井佐助(哲朗の曽祖父)の弟、精造の妻・石井緑園が
原節子の姉ということらしいです。

ちょっと混乱してしまいましたが、遠い遠い親戚のようです。

 

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マッカーサーとの関係は?

ネットで原節子と調べると、マッカーサーという検索候補が現れます。
この二人にはいったいどんなことがあったのか、調べてみました。

原節子が20代の時に、
あのマッカーサーがGHQの最高司令官として来日しています。

そして一部では原節子とマッカーサーが深い関係にあったのではと語られているようです。

しかし、これは当時の原節子の映画である『新しき土』を見ていたマッカーサーが、
原節子はチャーミングだと言ったことが外国人記者の耳に入り、
いつの間にか形を変えて伝わってしまったというのが真相です。

ですからこれは単なるでっち上げられた噂に過ぎないようです。

小津安二郎との関係は?

 

原節子と言ったら小津安二郎作品ともいわれるくらい、
二人は同じ映画というものを通して深い絆を育んできたのは事実です。

「晩春」のヒロインとして、1949年に小津安二郎に初めて抜擢されました。
それ以後、「麦秋」(1951年)、「東京物語」(1953年)など、
2人の代表作が次々に世に送り出されていきました。

まさに小津の手によって原節子は名実ともに、
日本一に女優という地位まで上り詰めました。

そして彼女の引退は小津の死に殉ずるものだったともいわれるくらい、
原節子が小津を尊敬していたのは確かです。

こうなってくると、そこにそれ以上の関係があったのかということがっ気になってきます。

事実、ヒット作を次々と生み出していた当時も、
二人の恋の噂は絶えませんでした。

そして小津監督の通夜に訪れた原節子が玄関先で号泣して、
それ以来女優業をぱったりと辞めたことも、
二人のロマンス説に拍車をかけるものとなりました。

しかし、二人を知る映画評論家の貴田庄は、
「恋愛感情に似た想いはあったものの、恋仲にまでは発展していなかった」
と語っています。

大監督と大女優の二人といいう立ち位置の難しさと、
当時、小津も別に交際していた女性がいたこともあり、
二人はそれ以上の恋愛関係には発展しなかったと述べいます。

ただ、1962年5月、小津は日記に次のように記しています。

<原に酔余(酔って)電話する>

酔っぱらった時に声が聞きたくなるのは、原節子だった。

 

原節子は結婚したのか?

原節子は日本一の女優でした。
もちろん、男性からの誘いも引く手あまただったように思われます。

では結婚はしたのでしょうか?

原節子は一生結婚することなくその生涯を終えました。

その理由は定かではありませんが、
一説には女優としてのプロ意識がるために、
結婚をしなかったというものがあります。

引退後、彼女は一貫して自分の姿を隠してきましたが、
結婚をするとどうしても、個人としての顔を隠し通すことができないところが出てきます。

そういった理由で結婚しなかったという説があります。

そしてこれは筆者の考えですが、
やはり小津監督への想いがあったために結婚をしなかったのではないかと思います。

彼女の小津監督に対する想いは本物で、
作品を作っている間はずっと彼を尊敬していたのではないでしょうか。

そして小津監督の死を迎えた。
そのために、彼女の心にはすっぽり穴が開いてしまったのではないでしょうか?

その穴を埋められぬまま、一生を終えたのだと筆者は憶測しています。

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感想(1件)

まとめ

 

では最後に小津安二郎の言葉をそのまま記して、
この記事を終えたいと思います。

そして筆者もこの小津の言葉に対して、全く同感であります。

「一時世間から美貌がわざわいして演技が大変まずいというひどい噂をたてられたこともあるが、
僕はむしろ世間で巧いといわれている俳優こそまずくて
彼女の方がはるかに巧いとすら思っている」

「原節子ほど理解が深くてうまい演技をする女優は珍しい。
『原節子は大根だ』と評するのはむしろ監督が大根に気づかぬ
自分の不明を露呈するようなものだ。

実際、お世辞抜きにして、日本の映画女優としては最高だと私は思っている」

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