ピンクレディーって素晴らしいアイドルでしたよね。

阿久悠と都倉俊一コンビが織りなす素晴らしい曲の数々を、
見事なまでに歌いこなしてくれました。

本当に昭和のピンクレディーは凄い存在でした。
まさに日本歌謡界のモンスターと言っていいでしょう。

でも、ピンクレディーの「渚のシンドバッド」がサザンに
影響を与えたってどういうことなのでしょうか?

ということで、今回はピンクレディーとサザンの関係について見ていきましょう!

 

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ピンクレディーのプロフィール

ピンク・レディーは、1970年代後半に日本中を席巻したアイドル。
メンバーはミー(現:未唯mie)とケイ(現:増田恵子)の2人。

楽曲は阿久悠の作詞と、都倉俊一の作曲がほとんど。

ミー

本名は根本美鶴代(ねもと みつよ)

1958年3月9日生まれ(2019年には61歳)

静岡県出身
常葉高校

ケイ

増田恵子(ますだけいこ)

本名は桑木啓子(くわき けいこ)

1957年9月2日生まれ(2019年で62歳)

静岡県出身

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渚のシンドバッド

渚のシンドバッドは、1977年6月10日発売のピンクレディー4枚目のシングルです。
作詞作曲はもちろんあの名コンビ、阿久悠と都倉俊一が手掛けています。

1977年のオリコン年間シングルチャートでは、
渚のシンドバッドが1位を取っています。

日本中を席巻していましたね!!

 

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「渚のシンドバッド」がサザンに与えた影響とは

現在では日本を代表するバンドになっているサザンオールスターズです。
デビューして40年以上たっています。

1978年に、青山学院大学に在学中の彼らのデビューは、とても静かなものでした。

彼らのデビュー曲は言わずと知れた、「勝手にシンドバッド」という曲です。
実はこの曲の制作にはちょっとした裏話があります。

実はサザンがデビューした当時、人気最絶頂の沢田研二「勝手にしやがれ」と、
同じく人気絶頂のピンクレディー「渚のシンドバッド」を組み合わせて作ったタイトルであると
桑田佳祐は後の雑誌にインタビューで答えています。

ちなみに当時でいうB面、現在でいうカップリングの
「当たって砕けろ」という曲の中にも、
ピンクレディーを代表するフレーズである『ウォンテッド』を挿入しているのです。

デビュー当時、サザンはある種のコミックバンドのような要素があったのですが、
桑田佳祐のロックに適した声と、歌唱力が多くの人に受け入れられて、
日本を代表するバンドに成長していったのです。

「勝手にシンドバッド」はドリフからパックったという説も

「勝手にシンドバッド」は1978年6月25日に発売されました。

この「勝手にシンドバッド」ですが、大ヒットとなりました。
当時は彼らは大学生で、どう考えてもデビューシングルが売れる確率は低かった曲なのですが、
実際には大ヒットしてしまったのです。

その訳は、ドリフターズのいかりや長介がこのタイトルに抗議したためでした。
この抗議がもとで、この曲は注目されてヒットにつながったのでした。

なぜいかりや長介がこの曲に抗議したかというと、
ドリフのコントの中で志村けんがこの「勝手にシンドバッド」というタイトルをすでに使っていたのです。

それは全員集合のシートコントの中で、売れない歌手を演じた志村けんが、
「勝手にシンドバッド」という曲を出すと言ったそうです。

それからサザンがこのタイトルを使ったために、いかりや長介が抗議に至ったそうです。

さらに一定数のドリフファンも志村けんが先に使っていたのを知っていたので、
このタイトルでシングルが出たのを知った時には、
志村けんのパクリだと思ったファンもいたようです。

 

まとめ

こうなってくるとサザンの「勝手にシンドバッド」は、
どのよに名付けられたのかが分からなくなってきましたね!

桑田本人が言うように、沢田研二とピンクレディーの
曲のタイトルからとったものなのか、それともドリフからとったものなのか?

でも、こんな風に40年以上も前の曲について語っていられるというのは、
ピンクレディーもサザンも偉大な存在であるという証明です。

どうせなら今日は、サザンとピンクレディーと沢田研二の曲を聞きながら、
ドリフのコントを見てみてはいかがでしょうか?

きっと楽しいはずですよ!!

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