ピンクレディーはホントにすごかったですよね?
昭和を席巻したタイフーンです。
この二人の活躍は本当に素晴らしいものがありました。
みんなテレビに釘付けになっていた時期ってありましたよね。
でも、どうして解散になってしまったのでしょうか?
これって気になりますよね!
ということで今回は、ピンクレディーの解散について迫ってみましょう!
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ピンクレディーの全盛期
第1弾シングルの「ペッパー警部」(1976年8月)は売上60万枚を記録しました。
この曲でピンクレディーは1976年の
「第18回日本レコード大賞」新人賞を獲得しました。
そしてこの曲は年をまたいで息の長いセールスとなりました。
特にこの曲では両脚を開くムーブが斬新であるとして、
世間からの大きな注目を浴びました。
第2弾シングルの「S・O・S」(1976年11月)は
ピンクレディーとしては初のオリコン1位を記録しました。
第3弾シングルの「カルメン'77」(1977年3月)も続いてオリコン1位を記録しました。
その後も彼女たちの勢いは続きます。
第4弾シングルの「渚のシンドバッド」(1977年6月)では、
ピンクレディーとしては初のミリオンセラーを記録したのです。
この「渚のシンドバッド」のミリオンセラーによって、
ピンクレディーは“社会現象”となったと言っても過言ではありません。
日本列島にピンクレディーというタイフーンが吹き荒れました。
ここに面白いエピソードがあります。
サザンオールスターズが彼女たちのミリオンセラーである「渚のシンドバッド」と、
1977年の沢田研二の「第19回日本レコード大賞」受賞曲である「勝手にしやがれ」
の曲名をミックスさせて、
自分たちのデビューシングル曲のタイトルを「勝手にシンドバッド」としたというものです。
今から考えると、あの大御所であるサザンが
そこまでするっていうのは、本当に凄いですね!
それだけ当時のピンクレディーは雲の上の存在だったんだと思います。
第5弾シングルの「ウォンテッド(指名手配)」(1977年9月)もこれまたメガヒットを記録しました。
オリコンで12週連続1位というとてつもない記録を打ち立てました。
しかも、アメリカ人歌手にカバーされたというのですから驚きです。
1977年の日本レコード大賞において、ピンク・レディーは「大衆賞」を受賞しました。
第6弾シングルの「UFO」(1977年12月)も立て続けにミリオンセラーを達成!
この曲で1978年の念願の「第20回日本レコード大賞」を受賞しました。
それまでのレコード大賞の歴史を見ても、
このようなディスコ・ポップス系歌手が大賞を受賞したというのは前代未聞のことで、
大きく歴史が塗り替えられた瞬間でもありました。
また『UFO』の詞の世界ではでは、“地球の美女が異星人に恋をする”
という阿久悠の歌詞も、ある意味デビッド・ボウイの世界を想起させる部分があり、
1970年代の当時としては非常に画期的でした。
第7弾シングルの「サウスポー」(1978年3月)も当然のごとくミリオンセラーとなりました。
特にこの曲の中では、左利きの女性投手が王貞治と一騎討ちをするところが非常に印象的でした。
これは当時一世を風靡した“読売巨人軍の四番打者・王貞治のホームラン世界記録ブーム”を背景としたもの
である(この頃、王貞治は初代の国民栄誉賞を受賞した)。
このように、1977年から1978年までの2年間がピンクレディーの絶頂期であったと言えます。
ピンクレディーの人気が下降する
こんな飛ぶ鳥を落とす勢いであったピンクレディーですが、
徐々にその歯車は狂ってていきました。
その発端は『第29回NHK紅白歌合戦』(1978年)への出場辞退からでした。
その理由は、紅白の裏で放送された日本テレビ系のチャリティー番組
『ピンク・レディー汗と涙の大晦日150分!!』に出演したことがきっかけでした。
当時、アイドル歌手が紅白を蹴るというのは考えられないことでした。
そこでピンクレディーは猛バッシングを受けることになったのです。
それで人気を大きく落とすことになったのでした。
しかし、この紅白辞退はピンクレディーの意志ではなく、
彼女たちの所属事務所の意志だったのですが、
それでもマスコミは彼女たちをバッシングしたのです。
さらにこの後ピンクレディーはアメリカに進出します。
シングル『Kiss In The Dark』がビルボードで37位にランクインしました。
これに関しては成功と考えるかどうかは、
その基準次第なのですが、
その後ピンクレディーはアメリカの活動を1年くらいで終えて撤退してきました。
ただ、その頃には全盛期の人気ほどのものはなくなってしまったのでした。
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ピンクレディーの解散理由
全盛期には睡眠時間が2時間というハードな生活を強いられていまた。
それでも、恋人はいてその限られた睡眠時間を削ってでも会いに行っていたようです。
それなのに、事務所は悪徳だったために、
給料制で雀の涙ほどしかお金をもらっていなかったようです。
そしてまだ無知だった彼女たちは、契約の重要性も知らなかったために、
稼いだお金のほとんどが事務所に吸い上げられていました。
そしてこのような殺人的スケジュールの中で精神が参っている時に、
ケイが恋人に会う時間をとりたくて悩んでいたのでした。
もちろんこの昭和の時代ですから、事務所は交際も結婚も反対でした。
そこで結婚すなら芸能活動をやめるしかないという結論に至ったのです。
そしてこの時のケイのお相手は野口五郎だったということです。
その結論に対してミイは、親友で苦楽を共にしてきたケイが幸せになるなら
それでいいと、解散に同意したのでした。
そしてピンクレディーは解散しましたがケイと野口五郎のつきあいはうまくいかず、
そのうち破局してしまいました。
ただ、ケイはこの解散に関して自責の念があるようで、
いつもミイに対して申し訳なく思っているようです。
特に解散後の10年間は、大きく自分を責めていたようです。
ただ、その後もピンクレディーはたびたび復活していますので、
この二人の仲の良さがうかがえ知れますね!!
まとめ
ピンクレディーの解散は残念でした。
でも、あの時解散を受け入れるという
ミイのケイに対する思いやりは、本当の友情だと思います。
それがあったからこそ、二人は今でも仲がよくて、
たまに復活してくれるのだと思います。
この二人は素晴らしい人たちですね!
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