上原康助ってご存知ですか?

上原康助は沖縄県出身の政治家で
労働運動家なんです。

 

色々と凄い業績を残した人です。
でも、そんなに有名な人ではないと思います。

 

沖縄県民の大きな誇りだった人です。

ということで、今回は上原康助に迫ってみましょう!

スポンサーリンク




上原康助プロフィール

上原康助
うえはら こうすけ
1932年9月19日生まれ
2017年8月6日没
沖縄県国頭郡本部町出身
沖縄県立北山高等学校

とても威厳のある顔をされていますね。

これまでの人生でいろいろな重責を担ってきた
という感じが出ています。
色々と大変な思いをされてきたのではないでしょうか?

そしてきっと強いリーダーシップがあったのだと思われます。

上原康助のこれまでの人生の含蓄が、
この顔によく表れていますね!

所属政党

日本社会党
社会民主党
民主党

 

選挙区

沖縄3区

当選回数10回

 

称号

勲一等旭日大綬章
従三位

 

国務大臣

第59代 北海道開発庁長官
第29代 沖縄開発庁長官
第24代 国土庁長官

生い立ちと労働問題への目覚め

1932年に上原幸福の二男として
沖縄県国頭郡本部町で生まれました。

当時の上原家は貧しかったのですが、
持ち前の頭の良さで、
学校でもその成績の良さで目立っていたのでした。

 

学生時代には常に優秀な成績を収めていました。

沖縄県立北山高等学校を卒業後、
米軍沖縄地区に就職しました。

 

しかし、ここで不運が上原を襲います。

実はその頃の米軍基地内では、
差別待遇が横行していたのでした。

沖縄住民への賃金差別など、
差別待遇が常に行われていたのです。

 

こういったことに不満を覚えた上原は
この米軍基地で行われたストライキに参加したことで、
一方的に解雇されてしまったのです。

 

それはUSCARの布令116号でストライキは違法とみなされていたからです。

この一方的な解雇をきっかけに、
上原は労働問題への関心を持つようになります。

その後、1960年には上原が中心となって
「軍労働問題研究会」を組織しました。

そしてこの「軍労働問題研究会」はその後も活発に活動して、
島民の赤裸々な訴えを
米軍基地に伝える枠割を担ってきたのです。

そして米軍基地への不満をぶつけるはけ口にもなっていきました。

 

スポンサーリンク




地方から国政へ

その後、全沖縄軍労働組合は
ますますその存在感を増していきます。
活動はさらに活発化して、
勢いはますます強くなっていきました。

 

全沖縄軍労働組合は1970年に行われた、
大量解雇撤回スト等を指導して
これらのストを成功させます。

 

そして、労働者側に有利な待遇改善を勝ち取りました。
この勝利で全沖縄軍労働組合は労働組合として、
更なる評判を呼んでいったのでした。

こういったことで自信を付けた上原康助は、
地方での活動から国政へと興味を大きくしていったのでした。

そして遂に1970年には、日本社会党から立候補して、
衆議院議員選挙に当選したのでした。

 

それ以後は10回連続の当選という偉業を果たしました。

社会党内では、積極的に安全保障問題に取り組みました。
その取り組む姿勢は党内外で大きく賞賛されていました。
それは沖縄の現状を知る上原のなせる業だったのかもしれません。

その後は順調にキャリアを積み上げていきました。

そして1993年の細川内閣時代に、初入閣を果たしました。

北海道開発庁長官、国土庁長官、沖縄開発庁長官
といった重要な任務に就きました。

 

そして1994年に社会党副委員長に就任し、
2年後の1996年には社会民主党副党首にも就任したのでした。

このように、上原康助は国政を舞台に
思う存分自分の力を発揮して、
素晴らしい業績と功績を上げてきたのです。

上原康助の死

上原康助は2017年8月6日に息を引き取りました。
死因は呼吸不全でした。

84歳でした。

 

上原康助は沖縄県選出の国会議員としては
初めての閣僚を務めた大功労者です。

この死は海外のメディアにも取り扱われて、
スイスの情報誌『swissinfo』でも扱われました。

 

沖縄が輩出したこの偉大なる人物の死に、
沖縄は深い悲しみに包まれたそうです。

まとめ

今回は上原康助について書いてみました。

上原康助は本当に、沖縄のために、
そして日本のために尽くしてくれました。

 

このような素晴らしい人物の死は本当に残念ですね。

今後も彼のような素晴らしい人物が出てくることを
期待したいと思います。

スポンサーリンク




おすすめの記事