宮川一夫ってご存知ですか?

一般的な認知度は低いかもしれませんが、
宮川一夫は実は日本映画界を代表する映画専門カメラマンなのです。

主に京都太秦での時代劇や、大映映画の時代劇で活躍しました。
彼の技法は陰影のある当時としては非常に斬新な撮影方法だったのです。

特に稲垣浩、溝口健二や黒澤明らの作品における
カメラマンとしてその名は世界に知れ渡っています。

今回は、そんな宮川一夫に迫ってみたいと思います。

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宮川一夫プロフィール

宮川 一雄
1908年2月25日生まれ
1999年8月7日(91歳没)
京都府京都市出身
京都商業高校卒業
日活京都へ現像部助手として入社
その後撮影部の欠員に伴い撮影部に移動
1970年よりフリー

http://www.mozartant.com/Jordan/Movie_Play/Miyagawa_camera.htm

主な作品

『鴛鴦歌合戦』、『羅生門』、『雨月物語』、
『祇園囃子』、『無法松の一生』、『夜の河』、
『用心棒』、『悪名』、『東京オリンピック』、
『座頭市と用心棒』、『ある殺し屋』

宮川一夫が編み出した銀残しとは

この銀残しとという手法は、市川崑監督の『おとうと』(1960年)の撮影現場で開発されました。

『おとうと』の時代設定は大正時代になっていたのです。
この独特の雰囲気を醸し出すために、
フィルムの発色部分の銀を残すという、「銀残し」を編み出したのです。

宮川一夫が開発した銀残しは、その後世界中の映画で多く使われるようになったのです。

銀残しが使われた映像はこちら

カメラマンになった経緯

宮川は昭和元年に、ひょんなことから映画の世界に入っていくのでした。
宮川はちょっとはいからな青年で、スチールカメラに興味を持っていました。
彼の友人が日活撮影所で仕事をしていたので、たまにその友人にフィルムの現像を頼んでいました。

そうこうしているうちに、日活野球部の助っ人をすることになったのです。
そうすると今度は撮影所の仕事を少しずつ手伝うようになったのです。

その後3年間の現像処理をしました。
さらに12年間の撮影助手を経験し、晴れて撮影技師になったのでした。

この時の15年間の修行で、撮影テクニックの基本を全て習得したのです。

古くから映画にかかわってきたために、
彼の多くの作品はモノクロです。

しかし、そのモノクロの映像において、
最も多くの色を感じることができたのは、宮川の作品だけでした。

まるで水墨画のようなカメラワーク

宮川は灰色にこだわりがありました。
白黒映画は大きく分けて白と黒の2階調しかありません。
灰色には無限の階調があると、彼自身は考えていたのです。

宮川は水墨画を学んでいく中で、絵の具を一切うことができなかったのです。
そのために、彼は灰色の中だけで、いろいろなものを表現しようとしたのです。

実はこのことが宮川の後のカメラワークに大きな影響をもたらしたのでした。
モノクロ映画は、その色の階調のせいで、光と影の表現がなによりも重要でした。

言い換えると、光と影が織り成すそのコントラスト、
そしてその中間に位置する灰色の見え方によって、作品の雰囲気が大幅に変わりました。

モノクロ時代は、光と影のコントラストの見せ方が最も重要でした。
その見せ方によって、硬調か軟調かといった部分が創り出されたのでした。

そのため、現在のカラーよりもカメラマンの美的センスや技量が作品より大きく反映されたのです。
宮川はモノトーンをかなりの自由度で操ることができたのです。

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映画『羅生門』のアーティスティックなカメラワーク

「羅生門」(1950年)は宮川にとって、大きなターニングポイントとなった作品です。
独自の芸術センスから、宮川は黒澤明とは相容れないセンスだと言われていました。

そして撮影前に黒沢監督から「太陽を画調としてどう捉えるか?」という問いを出されていたのです。
それに対する宮川の答えは、「白と黒と灰色という3色でカメラワークをこなす」というものでした。

 

監督はそれを受け入れました。
そして最初の難題が「羅生門」の話の中でした。
それは三船敏郎と京マチ子の抱擁シーンでした。

2人のバックに太陽があるという強いコントラスト映像を、黒沢は望んだのです。
しかしここで問題が起きます。
通常、太陽を大きく撮るには望遠レンズを用います。
しかし、人物を撮る場合は標準レンズを用います。

 

そこで宮川が考案したのは、25メートルの高さのやぐらの上で、
三船敏郎と京マチ子に演技をしてもらうことでした。
それを25メートル下から絞りを最小にして撮影したのです。
そうすることによって2人と太陽をくっきりと撮影することに成功したのです。

これらは確かに原始的な方法ですが、
普通の人ではなかなか思い浮かばないようなアイディアだったのです。

世界から絶賛された薮(森)のシーン

三船敏郎が薮の中を走りまくるシーンは圧巻でした。
風にゆれる木の葉の影や森の中の木洩れ日などで、海外の評論家を驚かせました。

このシーンで実は三船はただ単に延々と同じところを走っているのです。
しかし、カットにより延々と走っているように見せたのです。

 

三船が走っている時に出てくる木の葉は、撮影助手がレンズの前に枝を置いたのでした。
森の中での影は、鏡に光を反射させたものでした。
これらは宮川との彼のスタッフが手作りで表現したものでした。
そこには一切特殊効果などは存在しなかったのでした。

このような宮川の絶え間ない努力と発想が、
黒澤作品をこれまでのない斬新でダイナミックな作品に仕上げたのです。

そして翌年のベネチア映画祭で、グランプリ受賞することになったのです。

1コマに対する情熱

宮川が残した言葉は深いものです。
言い換えると『1コマに対する情熱』です。

例えば、何か一つ持ち上げるにしても、
どういった背景があるのかを理解することが必要であるということです。
脚本をしっかりと読んで、その人がどういう気持ちでその行動をとっているのかを
理解しながら撮影することが重要であるというのです。

 

1コマ1コマ全てを理解して描くというと、時間がかかりすぎるというかもしれないが、それは違う。

 

作りての思いが伝わらなければ、たとえどんなに技術的に優れていても、
その結果は絶対につまらないものになるというのである。

 

そして真の意味でその力を身に付けるためには、
日ごろから観察力を高めることが大切だというのです。

これは日ごろから勉強をして努力を重ねてきた宮川ならではの言葉だったのでしょう!

宮川一夫の息子は

宮川一夫の息子、宮川一郎は1947年に京都で誕生しました。
視覚芸術を学ぶび、父と同様の世界に入りました。

現在も芸術、映像関連で活躍しています。

まとめ

宮川一夫は日本が誇るマメラマンだったんですね!

本当に素晴らしい人です。
彼がそうなりえたのは、旺盛な好奇心とたゆまぬ勉強の賜物であったと思います。

彼のような、世界に誇れるカメラマンが今後も日本から出てきて欲しいものです。

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