力道山って本当に凄かったですね!
日本という国に、プロレスを根付かせた張本人です。

彼の存在なくして、日本のプロレスの発展はなかったことでしょう。

ただ、その一方で力道山は本当に怖い存在だったらしいですよ。
もう、スパルタ、体罰は当たり前でした。

どんな人なのか興味ありますよね!

 

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力道山のプロフィール

力道山

りきどうざん

1924年11月14日生まれ

1963年12月15日没(39歳)

176㎝(公称180㎝)

116㎏

日本が統治していた頃の現在の北朝鮮で生まれました。

その後日本に渡り、二所の関部屋に入門しました。
初土俵は1940年5月場所で、1946年11月に初入幕を果たしました。

その後も順調で、1949年5月場所には
関脇に昇進したのですが、
1950年に突然自分で髷を切って廃業したのです。

その理由は、朝鮮人という国の問題で大関に昇進できなかったためとか、
親方との間の金銭トラブルとも言われています。

大相撲時代の成績

通算成績:135勝82敗15休 勝率.622
幕内成績:75勝54敗15休 勝率.581
現役在位:23場所
幕内在位:11場所
三役在位:6場所 (関脇3場所、小結3場所)
三賞:1回
殊勲賞:1回 (1948年5月場所)
金星:2個(東冨士1個、照國1個)
各段優勝
幕下優勝:1回 (1944年5月場所)
三段目優勝:1回 (1942年1月場所)

プロレスラーに転向

1952年にアメリカに渡って、日系レスラーから猛特訓を受けたのです。
翌年帰国して、日本プロレス協会を設立したのです。

1954年2月から14連戦して行った興行では、
シャープ兄弟を招聘して、
テレビ放映もされ、力道山はプロレスラーとして一躍人気者になったのです。

この興行でシャープ兄弟と戦った時の
力道山のタッグパートナーは木村政彦でした。

しかし、木村はいつも負け役をさせられており、
それがどうしても納得いかなかったのです。

そうこうしている間に、力道山との間に亀裂が入り、
木村は自分で団体を立ち上げて興行を行うも、
観客動員が上手くいかずに、金銭的な窮地に陥ったのです。

それから木村は、
もし本気でやれば自分は力道山に勝てると挑発したのでした。

 

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昭和の巌流島

この挑発を受けて、
力道山は木村政彦との試合をすることになったのです。

これが『昭和の巌流島』と言われるものです。

もともとこの試合は引き分けという筋書きがあるショーだったのですが、
その筋書きを力道山が途中から無視して
突然殴りかかって、張り手の連打で木村をKOしたのです。

この試合をリングサイドで見ていた木村の師匠である牛島はこの試合に驚き、
愛弟子の木村を助け起こそうとリングに上がったのですが、
完全に意識を失った木村は立てませんでした。

また、あの大山倍達もこの試合を見ており、
力道山に対して激怒し、その場で挑戦しようとしたのですが、
無視されてしまったのです。

どうして筋書きを無視したのか?

このような結末を迎えた世紀の一戦でしたが、
どうして力道山は筋書きを破ってしまったのでしょうか?

ここには諸説あるのですが、
最も有力とされている説は、
木村が力道山の急所付近に蹴りを入れました。

それに怒った力道山に対して本気をだして
KOしてしまったと言われています。

ただ、この試合は本当に謎が多い試合として、
現在でも語り継がれています。

猪木に対するシゴキクズエピソード

力道山は猪木と馬場という2人の弟子を持っていたのですが、
馬場には優しく、一度も殴ったことがありませんでした。
しかし、猪木には容赦しなかったと言われています。

 

走行中の車から猪木を突き落とした。

 

クルーザーに乗っているときに、海の真ん中で降ろされて、
猪木はそこから1時間半かけて東京まで泳いで帰った。

 

飼い犬の番犬としての教育をするのに、実験台にされた。

 

何かにつけて猪木を殴っていた。

 

名前を呼んでもらったことなどほとんどなく、
大体は「アゴ」とか「おいアゴ」と呼ばれていた。

 

このようなひどい仕打ちを受けてアントニオ猪木は、
弱い者いじめは絶対にしないと誓ったそうです。

まとめ

力道山に関するエピソードはこれ以外にもたくさんあります。

とにかくハチャメチャな人間だったようです。
その気性の荒さが祟って、力道山は39歳で
その短い生涯を終えています。

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