田原俊彦って昭和には絶大な人気を誇りましたよね。

もう、ほんとに誰もがトシちゃんってなってました。
色々とヒット曲も飛ばしてましたからね。

 

もう、昭和は田原俊彦の時代といっても過言ではなかったと思います。

歌にドラマに大活躍でした。

ということで今回は、田原俊彦について迫ってみたいと思います。

 

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田原俊彦のプロフィール

田原 俊彦
たはら としひこ

愛称 トシちゃん
1961年2月28日生まれ

山梨県甲府市出身
山梨県立甲府工業高等学校卒業

身長175cm
体重58kg

 

 

やっぱり当時の田原俊彦はカッコ良かったですね!
さすがです!

これだけカッコよければ、売れて当たり前ですね。

田原俊彦はたのきんトリオとして有名です。
しかし、その3人の先陣を切って、1980年6月『哀愁でいと』で歌手デビューを果たしました。

 

 

 

田原俊彦と近藤真彦は、それまで男性アイドルの象徴だった郷ひろみと西城秀樹から、
その座を奪い取って、1980年代を代表する2大男性トップアイドルに君臨しました。

田原俊彦は歌はいまいちでしたが、ダンスは抜群にうまく、
ダンスビートにのせて踊りながら歌うポップアイドルとしての地位を確立しました。

レコード大賞新人賞などにも輝きました。

その後は俳優としても活躍して、
代表作はなんといっても『教師びんびん物語』が我々の印象に残っています。

 

 

1982年にはブロマイド年間売上トップ(男性部門)を記録するなど、
本当に飛ぶ鳥を落とす勢いでした。

田原俊彦と中山美穂がフライデーされた!

そんな田原が絶好調の中、彼は私生活でも色々と浮名を流していました。
そしてなんと1989年には、当時こちらも売り出し中だった
中山美穂とのツーショットがフライデーされてしまったのです。

 

 

しかもなんと、『2人は半同棲状態』であると
フライデーは報じていたのですから世間は驚きです。

この2人が出会ったのは、当時のバラエティー番組
『オールスターハワイ大旅行団』での共演でした。

 

中山美穂は子供のころから、
スーパーアイドルだった田原のファンだったと言われています。

これは、松田聖子と郷ひろみの恋愛関係の始まりにも似ていますね!

ただ、このビッグカップルの交際にファンも世間も大騒ぎでした。
特に中山美穂は当時売り出している最中ということもあって、
また昭和という時代背景からも恋愛は絶対タブーであったはずです。

 

事務所からも相当な圧力をかけられていたようです。

しかしこういった時代背景や状況にもめげずに、
2人の交際はそれから2年も続いたようです。
そして1991年にはなんと2人でハワイ旅行をしている最中に、再びフライデーされました。

ただ、この一件には中山美穂さんの当時の所属事務所(ビッグアップル)が烈火のごとく怒ったそうです。

実はこのビッグアップルという事務所は、
芸能界の陰のドンとも言われるバーニング傘下の事務所なんです。

そのために当時はまだまだ小さな会社だったジャニーズのメリー副社長が、
平身低頭に平謝りして何とかことを収集したとも言われています。

 

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田原俊彦が干された真相は?

一回目のフライデーでもう交際はやめると約束させられていたにも関わらず、
2年後には再びハワイでフライデーされたのには堪忍袋の緒が切れたようです。

中山美穂に手を付けられたバーニング側の怒りは収まらず、
ジャニーズ事務所に対して、田原の追放を迫ったともいわれています。

この2度目のフライデーの後に、どういうわけか、田原俊彦の全国コンサートが中止になっています。

その後、田原俊彦はモデルの向田彩子とできちゃった結婚しています。
それからどういうわけか、1994年にはジャニーズ事務所をやめて、
田原俊彦の個人事務所を設立しています。

それから数か月後に、長女が産まれた際に開いた記者会見で、
世にいう『ビッグ発言』をしてマスコミや世間から猛バッシングを受けました。

そしてその結果、田原は数年間にわたって干される結果になりました。

これは世間的にはこの『ビッグ発言』で反感を買ったということになっているのですが、
陰でバーニング側が動いて、田原を干したという情報もあります。

真相は闇の中といったところです。

ただ、情報を色々と操作する芸能界のことですから、
あり得ない話ではないかもしれませんね。

田原俊彦がジャニーズを退社した真相は?

これに関しては、いくつか説が存在しています。

あるジャーナリストによれば、
田原はジャニーズ事務所はティーンエイジャーのものと考えていたというものです。

郷ひろみのように一定の年齢になったら、
ジャニーズからは退くという前例にならい、
あとは10代20代の若い世代が中心となるべきという考え方です。
だから、30代に突入した田原が退社するのは自然の流れだったと思ったという説もあります。

しかし、別な説では上でも触れたように、バーニングが圧力を加えたという説もあります。

そしてまた別の説では、中山美穂との交際に激怒した
ジャニー喜多川との確執があったともいわれています。

そのために、ジャニーズ事務所内での立ち位置が厳しくなり、
退社したともいわれています。

ただ、退社後は彼はジャニーズ事務所の後輩たちとの共演などもNGとなり、
芸能活動を続けるうえで非常に厳し時代を送ったことは事実です。

 

まとめ

このように色々とあった、田原俊彦ですが、
2013年にはメリー喜多川から一通の手紙が届きました。

それを田原は2000人を集めたコンサートで、
聴衆に向けて朗読したようです。

「お元気ですか?」
「あなたの歌を後輩の若い子たちが引き継いで歌っていますよ。」

どうしてあの騒動から19年も経過して、メリー喜多川はこんな手紙を送ったのでしょうか?
それは多分、高齢になって全てを忘れて許せるようになったのではないでしょうか?

そしてこの手紙を受け取ってから、
彼は後輩との共演が許されるようになったようです。

そしてあのジャニー喜多川からも、優しい言葉をかけられたそうです。

そしてここ近年、彼の人気は復活して、
コンサートの規模も以前よりだいぶ大きくなっているようです。

今後の田原俊彦の活躍に期待していきましょう。

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